伊久美の歴史

伊久美の歴史

小高い茶畑から

日本一のお茶どころ、静岡県。

現在、広く知られている静岡茶ですが、その発展に重要な役割を担っていた地が伊久美であることをご存知ですか?

静岡県中部島田市、その山間部に位置する伊久美は、大井川の支流–伊久美川が流れる緑豊かな山村で、地域にはそこらかしこに茶畑が点在しています。

400年以上の歴史ある茶業の村、種を蒔いた坂本藤右衛門

ヤマメやアユが釣れ、川遊びやBBQが楽しめる伊久美川

伊久美の歴史は茶業と切っても切り離せません。古い記録によると、今から440年ほど前の天正13年(1585)に茶を栽培し、文禄2年(1593)に年貢として茶を納めたという記録が残されています。

伊久美村に茶栽培が広がるきっかけをつくったのは坂本藤右衛門でした。元和元年(1615)、藤右衛門は質の良い茶樹を求め、近江唐崎(現在の滋賀県大津市)を訪れ茶の実を持ち帰り、その実を村内に蒔いたことから伊久美に茶栽培が普及したと伝えられています。

藤右衛門が足を運んだ唐崎は、日本へ最初に茶文化をもち込んだ僧侶、永忠の由来となる地。『日本後記』には「弘仁6年(815年)滋賀韓崎(唐崎)の梵釈寺で永忠が嵯峨天皇に茶を煎じて献じた」と、日本で初めて茶について書かれた記述が残されおり、この際に献上した茶は永忠が中国から持ち帰った茶の実を栽培したものだと伝えられています。

政の茶一件」、茶の価格が下落し窮地に立つ伊久美村

山頂の茶畑、遠くに見えるのは南アルプス

江戸時代になると、それまで上流階級のものであった喫茶文化が庶民にまで広まり、生活の中で茶は身近なものとなります。そんな中、文政7年(1824)に『文政の茶一件』という訴訟事件が勃発。

この訴訟は、茶の値段が急激に下落したことに不満を募らせた駿河・遠州113の村の茶農家たちが、茶の流通を独占している江戸の問屋と村々で茶を取りまとめていた者が不正を働いているのではないかと疑い起こした訴訟で、この連名に伊久美の茶農家も名前を連ねていました。

訴訟は3年と長期に及び、判決は証拠不十分として原告側(農家側)の敗訴。茶の価格が下落した原因は不正ではなく、品質による価格競争にありました。伊久美の茶は品質が良くないと評され、江戸では下級品として扱われていたのです。

治製法』に全てをかけた坂本藤吉

伊久美農村環境改善センター内に設置されている坂本藤吉の記念碑

当時、江戸で最も高級品とされ人気を博していた茶は、新しい製法「青製煎茶製法」でつくられた宇治の茶でした。

元文3年(1738)に宇治の永谷宗円が発案したこの製法は「宇治製法」とも呼ばれ、新芽を蒸してから焙炉の上で手揉みし乾燥させるという、従来の蒸し製法と釜炒り製法を組み合わせた画期的なものでした。この製法により飛躍的に品質が高くなった茶は、香り高く、きれいな緑の水色で、保存も効く、非の打ち所がない茶だと江戸の人々は絶賛していました。

このままでは伊久美村は滅びてしまう。

生き残るためには「宇治製法」を導入し、高品質な茶をつくるしかない。

伊久美村の存続をかけ、ひとり野心を燃やす茶農家がいました。坂本藤吉です。

天保8年(1837)、一念発起した藤吉は、単身宇治を訪れ、宇治製法を学ぶと、多額の私財を投じて現地の茶師たちを伊久美へ招き、宇治製法を学ぶ伝習所を開設しました。こうした藤吉の行動を暴挙だと馬鹿にし嘲笑うものも少なくなかったと言い伝えられます。

宇治製法を導入した伊久美の茶はすぐに江戸で評判となりました。その評判を聴きつけた村人や周辺地域の人々が宇治製法を学ぼうと伝習所を訪れるようになります。藤吉はさらに私財を投じ、翌年も翌々年も宇治から茶師たちを招いて伝習会は続けられました。

宇治製法を学ぶ仲間が増え、伊久美の茶業に新しい風が吹き始めた最中、伝習会が始まってから3年目の天保10年(1839)6月7日、藤吉は42歳の若さで夢半ばに急死してしまいます。茶に全てをかけた藤吉の死を村人たちは悼み、手厚く弔いました。もう藤吉を馬鹿にする者は誰もいませんでした。

藤吉の茶にかけた熱意は同村の西野平四郎に受け継がれます。平四郎は藤吉に習い、自宅に伝習所(茶部屋)を建て、宇治の茶師たちを招いて伝習会を継続しました。

藤吉の熱意を受け継いだ者は平四郎だけではありません。伝習所で宇治製法を学んだ者たちがその技術を村々へもち返り、そこでも伝習会が開かれ、そこで学んだ者がさらに……こうして藤吉の想いは宇治製法と共に静岡全土と伝播し、現在の静岡茶の基礎となったのです。

現存する西野平四郎の茶部屋

代茶業の発展の中心地、伊久美

旧伊久美物産会社、現在もなお二俣公会堂として地域住民に利用されている

藤吉の死から約20年、宇治製法を取り入れ独自に発展を遂げた伊久美の茶は、江戸で最高級品として人気を博すまでになっていました。

安政元年(1854)になると、平四郎は江戸の神田に伊久美茶の販売所を開設。安政6年(1859)に横浜港が開港しアメリカとの貿易が始まると、茶の輸出にも着手し販売ルートは海外にまで広がっていきました。

日本の緑茶は海外需要が高く、主要な輸出品として茶の価値はさらに高まっていきました。明治13年(1880)、平四郎は三井物産と共同で茶の輸出を手がけるようになり、翌明治14年には、為替決済が可能な金融機関(銀行)「伊久美物産会社」が村内に設立されました。

まさに近代茶業の黄金時代。伊久美はその渦の中心にいた。と、言っても過言ではありません。天晴茶園は先人たちの想いを受け継ぎ、歴史ある伊久美の茶業を未来につないでいけるよう活動していきます。